時々錯誤 7/12 時が過ぎるのは

 時が過ぎるのは早いものであるが、時としてそれは早過ぎるものでもある。最近は専ら、iPhone純正のジャーナルアプリに文章を書くことにしている。手軽でかつ、メモアプリほどごちゃつかないからである。仕事部屋だけ変えたくなるのと同じ仕組みである。ジャーナルで初めて書いた文章には、来年の4月に向けた不安が綴られていた。そこから半年経ったとは、末恐ろしい限りである。

 時が過ぎるのは早いものであるが、時としてそれはあっけないものである。学生時代の修学旅行、のように楽しい出来事(長文の攻撃を受けたり、計画にないことをさせられて親友ともども不機嫌になったり、理不尽に叱られた友人の機嫌取りをしたり、必ずしも楽しかったわけではないが、大抵楽しい記憶に塗り替えられるものである)を終えた後の一週間とか一ヶ月とかは、だいたい毎日の寝る前に「あの日から何日が経った」などと思いを馳せていた。体感の経過時間の割に、時間とは過ぎ去っていないものであるることで、まだあれから一週間か、まだ二週間か、などと考えて直近で過ごした時間の濃密さを存分に味わう日々を送る。過ぎた時間を思い返すのが辛くなる頃=何週間経ったか忘れる頃になると、そろそろ次のイベントがやってくるものである。たとえそのイベントが楽しかったとして、あれから何日経ったのか、と考えることを楽しいこととして感じるためには、そのイベントを思い出として昇華していなければならないということに気づいたのは、つい最近のことである。

 時が過ぎるのは早いものだが、時としてそれは待ちきれないものである。やってくることが決まっている何かを待つ時、待っているその時間は長く退屈なものである。やってくるかもわからない何かを待つ時、待っているその時間はひどく憂鬱なものである。始めたくもない終わらない旅を始めさせられた気分である。でも待たざるを得ない状況にあるから、そういう感情から抜け出せないのである。

 時が過ぎるのは早いものだが、時として時とは何かを考えたくなるものである。時の長さとは絶対的でありながらすごく相対的なものである。文月のど真ん中、今日は気温の割に暑かったが、ここでの体感温度は、純正のお天気アプリに示されるくらいに数値に落とし込めるものである。でも相対的な時間の長さは絶対にそうできない。今日、ひどく長く憂鬱に感じたこの待ち時間の長さは、明日になればまた変わるものだからである。長く長く長い待ち時間も、いつかやってくるかもしれないゴールが見えた時、その瞬間には、まるでそんな時間などなかったかのように感じられるからである。時が過ぎるのは早いものだが、時としてそれは記憶という四次元の空間を支える、最も不安定な軸でもある。

貫通錯誤
カードゲームとボードゲーム(ゴールデンエッグラー,mtg,シャドバ,Blade Rondo,自作など)を嗜んでいます。カードゲーム、音楽、動画についてなどと、根強いファンを誇りたいショートエッセーの現代錯誤という連載を書いていきます。
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