2021年に『天気の子』を見た僕が頭を抱えた話

先日映画『天気の子』が地上波で初放送され、無論僕も視聴しました。かなり記憶に残る作品で、ツイッターでも多くの感想を目にしたと思います。
ふとトレンドランキングを見るとぱっと見ただけで天気の子系統とわかるワードばかりが載っていたのですが、その中に「セカイ系」というワードが20位くらい?にランクインしていました。関連のツイートを検索すると多くの人が『天気の子』と「セカイ系」という単語についてしきりに呟いていて、その内容が僕の感想と一致することが多く驚きました。
自分の思考が一般的だという裏付けが取れたので、なにも恐れずにお気持ち表明が出来るぞと思いつきこの記事を書いています。

『天気の子』と「セカイ系」

僕はかなり重度のオタクなのでこの言葉は大好物なのですが、多くの人にとって「セカイ系」という言葉は聞き覚えがないのではないかと思います。簡単に定義付けすることは難しいんですが、ここでは
「主人公とその周りの人々の心理状態や行動を描写し、その進展や関係性が直接世界に強く影響を与えるストーリーのこと」
とします。自分を含む身の回りの小さなセカイと、大きすぎて実感もつかない世界を関連付けて物語を進行していくということですね。
具体例を挙げるとすれば『エヴァンゲリオン』が一番の有名どころでしょうか。エヴァパイロットである主人公たちの精神状態の変化と合わせるように世界の状況も変化するという構成はこの定義に当てはまっています(実はエヴァンゲリオンがこのセカイ系ジャンル最大の成功例であるという見方も多く、これ以降のセカイ系作品はエヴァに強く影響されているものが多いです)。
ほかにも作品を出そうと思えばいくつでも出せるのですが、キリがないのでこれきりで。

この作品も先ほどの定義にもれなく当てはまっています。主人公である帆高と陽菜の心理状態、行動はそのほぼすべてが世界に深刻な影響を与える伏線となっており、遂に最後の選択で帆高は世界の在り方を変えてしまいます。主人公たちの小さな選択が、常識の範囲を超えて世界に影響するという構図はまさに「セカイ系」作品だと言えるでしょう。

なぜ頭を抱えたのか

結論から言うと「今後これをはじめとしたセカイ系作品を真面目に見られなくなった」という観念が理由です。

 2020年、僕らは未曾有の世界的大災害に直面していました。多くのメディアが騒ぎ立て、原因は何だとか解決策がどうのだとか、とにかくこれ関連のニュースを聞かない日は無かったと思います。政府は多くの声明を出し、「国民の意識、行動の変化が大切だ」と訴えます。しかしそう簡単に全てが変わることはなく、最初こそ大きかったムーブメントは鳴りを潜め、ほとんど変わらない日常を過ごしていました。

この文章、一言も「コロナウイルス」や「感染症」などの単語を使っていません。しかし、この文章を読んだほぼすべての人が「いきなりコロナのことを書き始めてどうしてしまったんだ」と思ったのではないでしょうか。その感想こそが「今後これをはじめとしたセカイ系作品を真面目に見られなくなった」という理由になります。
この「意外としぶとく、意外と滅びず、意外と変わらない世界」を経験してしまった僕たちは、セカイ系作品の根幹である主人公とその周りの人々の心理状態や行動を描写し、その進展や関係性が直接世界に強く影響を与えるストーリーに夢を持つことができなくなりました。
いや、もともとフィクションだろうというのは僕も分かっていますが、こうも真正面から反例が出ると、虚構の中に散りばめられた現実感が限りなく0になってしまったような気がしてなんとも虚しい気持ちになります。

セカイ系という僕の大好きなジャンルが2020年という現実に葬られてしまったんだと実感した2021年1月3日の夜、どうしようもなく頭を抱えていました。

 

 

 

あとがき
かなりふざけた内容にしようかと思ってたんですけどバリバリの痛いやつみたいなお気持ち表明になっちゃいました。誰に何を言われるか怖くて夜しか眠れません。

わいん
ゲームしてコーヒー飲む以外のことが苦手です。ガジェット系とかゲーム関連でなにかしら書こうかなと思ってますが多分変なものばっかり書きます。
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