その日あったばかりの詩人と電車で二人。ふと便箋を取り出した詩人は、紙を一枚一枚折りながら呟く。
「『死』は創作のテーマにしないようにしている。ただそれだけで、人を泣かすから。」
高校の時、バンドをやっていた自分には思い当たる節がある。「菊」「かげさえみえなくて」「あなたとの終着点」書く曲のほとんどに死を示す描写が差し込まれていた。といっても、決して厨二病を引き摺っていた訳ではない。
ちょうど親族を亡くした時期だった。適応規制の一つに「昇華」があるが、あれなくしては表現をまとめきることができない。裏返せば、昇華せざるを得ない何事かが起きた時に、創作を成すことができる。
流行病に一喜一憂していた時期に文章を書くことを始めたのも、落ち着きを見せた頃に更新が止まったのもそのせいである。不満とか不条理とか理不尽が筆を動かす燃料である。だから最近もたくさん文章を書いているが、しかし当時と違うのは世に出せるほどまとまりきっていないことである。
一つ考えられるのは、燃料の不足である。バンドをしていた時に曲を書くも、しかし書ききれないことが多かったのはエネルギーが持続しないからであった。思ったこと、描いたことを形にするまでに必要なそのタイムラグに燃料を吸い取られる。感情の揺れが小さすぎて、文章すら書ききれないのかとも思ったが、割に下書きが溜まりすぎである。
そうでないのだとしたら、不満の来る道と、不満の行く先がよく見えていないのだろう。感情の揺れ動くままに筆を走らせても、終着点に辿り着かない。書いている途中で何に突き動かされていたのかも忘れてしまい、やがては見返されることのないデータとしてだけ記録される。
そうはいっても、下書きであったとしても、文章の形で自分に向き合えているだけでも幸せなのかもしれない。こうして活字の集合と向き合っている間だけは、俗を全て捨て去ってひたすらに自らに向き合い、最後には肯定することができる。
私の周りには、そんなくどいことをせずとも、自分自身に向き合い続け、何を成すために何をするのかを問い続ける人間がたくさんいる。人生のメインロードをそうして描き、そこに大きな建物を建て、突き進むことのできる人はとても強く聡いのだと思う。そういう人に問いを立てられ、そういう人に憧れを持ち、自らに自らを問い続けた結果見えたのは、輝いて見えたそういう人たちの道が砂で囲まれていたことだった。自分だけのメインストリートを描くことに夢中になることは、それ以外の通り道を築くことを犠牲にしてしまうのかもしれない。大衆が決定し、いまや形骸化した「良い」とされる価値観の数々を踏み潰しては公衆の面前に見せつけ、誰かに決められた価値観の中で「いいね」と反応することの繰り返しに身を置くことを余暇とする薄さを目の当たりにした。何かを成すとは、誰かがいなければできないことである。そこに他者が介在するからこそ、他者の承認が価値観の軸になりうる危うさがある。砂と風にさらされる建物はいつか崩れる。
誰かが人生には余白が大切だといった。私もそう思う。ゆったりとした道に乗って、時に生き急いでいると言われるくらいに色々な余白に手を出してきた。メインストリートを築き上げた人からは、雑食で中途半端に見えるかもしれないが、無駄に見えるそういうことの積み重ねが、真っ白なキャンバスを染め上げる色になることを知っていて良かったと思う。
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