最近、ツイートをするときに意識していることが一つだけある。「牙を出さない」ことである。
私生活では、強者に敵意剥き出しの私である。高校の卒業アルバム内「クラスメイトの一言キャッチコピー」に書かれていたのは「クラスの切込隊長」だった。友人とのオンラインミーティング中に「10分間誰のこともディスらない」チャレンジをした際に、「政治家みたいな謝り方をしたことについて謝罪いたします。」と政治家を皮肉ったのは開始2分後であった。
しかし、ツイートでは極力お気持ちを表明しないようにしている。牙は、身近な人に研いでもらえばよいのである。
以下が例である。
実にどうでも良い。誰もその情報は求めていない。このツイートを見て何かに敵意を見出すとして、その対象は私以外あり得ない。
この情報は十年前にテレビでやっていたものであり、真偽はかなり怪しいが、やはり誰も求めていない情報である。
あまりのどうでも良さを目にしたとき、人は3つの感情を抱く可能性がある。一つは無視、一つは軽蔑、一つは安心である。質では劣っている可能性を否定しない・できない(かもしれない)が、簡単に言えば、コウメ太夫と同じタイプの笑いを提供している。少なくとも、そこを目指している。
すごく簡単に書いたが、「コウメ太夫と同じタイプの笑い」とは何たるか。コウメ太夫という高みを目指す上で分析が必要である。
この分析で「コウメ太夫と同じタイプの笑い」と比較検討したいのは「プライベートにおける貫通錯誤の社会批判芸」と「爆○問○やウー○ンラッ○ュア○ーに代表される、社会批判漫才」である。軸としては、「客層」と「ボケ」が挙げられよう。
以下が本お笑い分析のチャートである。
何を作っているのだろうか。○でわざわざ伏せたのに、図ではバッチリ名前が書かれているが、そういうボケである。(と言えば許されると、NSCの先生が言っていた。)
さておき、本稿で取り上げたいのは、パブリックな客を相手にした時のお笑いである。
図の上部、「自然」なボケとは、要するに意図的におかしな行動をする登場人物を用意しないやり方である。たいていの場合、世間を騒がせるニュースや社会問題に対し、誰もが「おかしい」と思う点を指摘していく。
図の下部、「作為」的なボケとは、「自然」なボケの真逆である。コウメ太夫のように白塗りで歌を歌ったり、貫通錯誤のようにどうでもよいことを突き詰めることで、「おかしなキャラクター」を作り出している。
ファクトとして、「自然」なボケの方がより刺激的である。そして、世情に即して新しい「ツッコめる社会問題」を発掘せねばならない。今、ロッキード事件のネタを書いても、彼らの意図する面白さは生み出せないはずである。
一方で、「作為」的なボケは刺激が弱い。大笑いには至らない。しかし、時代を超えた普遍性があるはずだ。コウメ太夫の最初のブレイクは15年前ほどである。時を超えた普遍的な面白さがそこにある。端的に言えば、お笑い界の純文学である。
他者や社会を題材に世を煽ることは、発信力さえあれば誰にでもできることである。 成長以上に定常が求められるこの時代に必要とされるのは、暴露と批判による罵り合いではなく、低刺激な「くだらなさ」の持続であり、日常の中から「どうでもよい」を切り取ることである。
お笑い界にもSDGsを。
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