時々錯誤 6/21 上手いことを

昔から、気を病むと物語の世界に逃げる習性があった。ひどく醜い争いをして心を閉ざし切ったときに、教室の片隅で本を読んでいたら「お前ってそんなキャラだったっけ」と声をかけられたことを覚えている。それほど人が変わったかのように活字を追いかけるブームが訪れることがある。しかしそれは誰かが意図して起こしている現実の流行り物とは違って、ひたすらの逃避の先にある唯一の出口でありその時の私を照らす唯一の明かりでもある。

大抵そういうときには創作の意欲も湧き出る。というより、おそらく何かを表現しないと堪らなくなるのであろう。この文章もそうである。「炎天に 雲浮かんでも 句は浮かず」などと少し上手いことを言ってしまったのもそういう時期であった。

こういう文章を書くとき、普段は必ず着地点を意識して筆をとり始める。つまり、オチをつけてから本編に手をつける。しかし居てもたってもいられずに筆を取ることもある。今日もそうである。ひたすらに何かを表現しなくては、寝付けそうにないから文字の羅列を連ねるのである。そういう生き物である。

全体的に影の落ちた暗い文章を書いて誰のためになるのだろうと思うこともある。私も昔は悲しい話を書く意味がわからなかった。その時はとてつもなく幼かった。自分より落ち目の人を見なくては居た堪れないこともあるし、そういう人に思いを馳せることで自分に陶酔したくなる人もいる。ハッピーエンドだけが必ずしも読後の感情をプラスにするものではないのである。

ハッピーエンドとバッドエンドのことを考えていたら、連鎖する記憶にアクセスしてしまって私自身がバッドに入りそうになっているが、そんな上手いことを言っている暇があったら、寝付く努力をした方がいい。一文が長くなるとき人は本当に追い込まれているのかもしれないなどと思いを馳せる。本当にまとまりがなくなってしまいそうであるが、言いたいことは要するに二つである。暗い気持ちで書く文章であったとしても、表現までが真っ暗になることは少ない。むしろ空元気でおかしくしないとやっていられない節があるからこそ、様子のおかしなものが出来上がるということ。それから、どんな文章であっても、それを待つ誰かがいないことは証明できないということである。明日は早起き。あと3時間くらいしか眠れなくなってしまう。時間をかけて文章を書いた割には、気持ちが晴れなかったことだけが悔いであった。

貫通錯誤
カードゲームとボードゲーム(ゴールデンエッグラー,mtg,シャドバ,Blade Rondo,自作など)を嗜んでいます。カードゲーム、音楽、動画についてなどと、根強いファンを誇りたいショートエッセーの現代錯誤という連載を書いていきます。
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