難解な算数の問題を解くところから始まった1日であった。素麺を啜り、布団に転がりしばしの冷涼を楽しみ、身支度をして家を出る。一週間ぶりの熱波に嫌気が差しながらも、日傘という文明の利器を手に入れた私は視線をキョロキョロさせながらも胸を張って歩いていた。教室に座り、戯曲を三つ見て、帰路に着く。乗り換え駅を飛び出して小さな冒険を始めて、エッセイしか書けない自分には珍しく短編の着想が二つ降りてくる。パスタを食す。短編を2本、電車で読み終えると、ああでもないこうでもないと言いながらしばし布切れと向き合い、家に着く。昨日やるはずだった仕事にここでようやく手をつけると、勢いよく5000文字くらいの文章を書いた。シャワーを浴びて、まだやることは残っているのにスマホに向き合う。
そんな1日の終わりに文章を書きたいと思って、昨日降りたテーマでしばし書くも、これは長くなりそうだと思って切り替え今これを書いている。頭の中でぐるぐるする言葉をそのまま吐き出している。ぐるぐるする言葉がそのまま文章になって出てきたらいいのにと思いながら、そうはいかないから文明の利器を頼って思考を文に落とす。落とすという字を見て、思い出したくない記憶が蘇っては、今度は気分を落とす。毎週木曜日は心が少しだけ傷つく場所を通らないといけないのである。その場所に日が落とす影を見ながら一緒に心に影を落とす毎週であったが、それも今週で最後である。
全く文章にまとまりが出ないが、たまにはこういうのもいいかなと思う。でも良くないから、表には出せないんだろうなと思う。もし表に出てきたらその時はわたしがピカソのように評価されて、ありものの作品全てが晒し上げられている時であろうと思う。でも自分で自分の腹を切ろうと気が狂いそうになった時には、この文章のことを思い出して、これを世に出すことで腹を切ることをやめる決心がつくと良いなと思う。そういう不安定さをわたしが抱えていることは、誰も知らないんじゃないかと思う。自分ですら知らない。生に対する執着があるから、わたしの2020年の半分は失われたというのに、衝動的にその執着が真逆に、しかも裏目に出ることがあるんじゃないかと思う。でなければこの時間に文章を書くことなどしない。これは一種の自傷行為である。自分で自分の傷を抉りきったから筆を止めようと思った。息も止めた。36秒して、苦しくなってまた息を吸った。もう一回止めて、今度は息を吐いた。わたしの耳はそれをため息と捉えた。
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