吾輩はトビウオである。名前はトビログ。
人間五十年、魚は二年、下天を云云言わせておるが、この文章に意味はない。読むべきでもない。この先ずつとこの調子である。きつと読んでいて呆れ果てるであろう。
しかしそれでも良いのだ。単語の羅列と揶揄されようとこの文章に意味は持たせたくない。それが使命だからである。
書きたい衝動に駆られて文章を書くこともあるだろう。そうであっても、このように意味のない文章を書くことはない。書く意味がないからである。
そもそも人はなぜ文章を書くのか。きつとそれは記録を残すためである。ただ、この文章に記録としての価値を見出すことはできない。やはりこの文章に意味はない。
やらねばならぬことは沢山ある。それを差し置いて書いているのがこの文章である。私はこの文章のために犠牲を支払つているのである。それなのに、価値がない文章を産み出しているのである。犠牲が価値を裏付けるものでないことがよくわかる。
意味のない文章を書き続けてきたが、この連載の平均字数を満たすにはあと400字程度必要である。あと500字何で埋めようか必死で考えている。必死で考えていることを描写することで文字数を満たそうと試みているところだが、実際のところあまり満たせていない。ひと段落分書けたのだから、良しとすべきかもしれない。
しかしまだ字数は足りぬ。むかし、マインドフルネスの一環として、「頭の中で考えていることすべてを書く」ことをしたが、それに似ているような気がしている。だから何だというのだろうか。珍しく情報量が増えた段落になった。
いよいよあと200字程度である。そろそろこの文章も大詰めといったところであろうか。起承転結でいう所の転から結である。ただ、情報量がゼロであるという点で、この文章に起承転結など存在しない。存在しないことについて思慮を巡らせても仕方がない。いい加減なことを言うのも大概にした方が良いだろう。
現代錯誤はこうした自問自答の繰り返してあるのかもしれない。
名言チックに書いてみたが、やはり大したことは言えていない。
さて、この文章も終わりに近づいてきているであろう。いや、近づいていてほしいものだ。なにせ、書くことがないのである。はて困った。困つているならばこのような文は書かぬはずである。さつきから中途半端に古めかしくしているがあまりうまくいつている気はしない。ここでおわろう。
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