WHO憲章によれば、「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱 の存在しないことではない。」とある。では、先天的に何らかの障碍を抱えて生まれてきている人間は、生まれた時点で健康になりえないのだろうか。「健康」とは、各個人がそれぞれの定義を持ってもよいものであると私は考える。そして特に重要なのが精神的な面における健康であるように思う。
人間が生まれてくる意味は何か。数億年の生命の歴史に問えば、それはおそらく「子孫を残すため」である。しかし、少なくとも我々人類には「感情」が備わっている。喜怒哀楽を有する以上、おそらくほとんどすべての人間が「幸福」を希求しているのではないだろうか。
生老病死という言葉がある。人間は老いること、病を患うこと、そして死を恐怖ととらえるから、生まれてきてしまうことこそが脱するべきものであるとする言葉である。なぜ仏教においてこうした考え方が生まれたか。それは、老いや病気といった、肉体的な「健康でない状態」のほとんどが、我々を「幸福」から遠ざけるからである。
「幸福」の定義は人によって異なる。同様に「幸福でない状態」の定義も人によって異なる。目が見えている私たちにとって、視力を奪われることは「幸福でない」だろうが、先天的に目が見えない人にとって、視力が奪われていることは「当たり前の状態」である。もちろん、それが幸福でない状態につながる事例も多く存在することだろう。しかしそうではなく、視力のない状態を受け入れ、さらに幸福を追求している人を何人も見たことがある。例えば、Daniel Kishは「耳で感じる」第六感的な特殊なスキルを会得して「見える」状態を得たとTEDで講演していた。WHOの定義に従えば、視力のない彼は「健康」ではないかもしれないが、生き生きと毎日を過ごしている彼が、少なくとも僕には「幸福」であるように感じられた。
身体的苦痛の有無を問わず、「幸福」であることを阻害するあらゆるものが我々を「健康」から遠ざけている。この観点に立てば、現状のCOVID-19感染拡大はまさしく、我々にとっての「健康上の重大な危機」である。ただ、Daniel Kishがそうしていたように、人間には環境すらも打破して「幸福」を獲得する力が備わっている。「健康に生きる」とは、自身が置かれている状況の中で、最大限「幸福」を追求する行為そのものを指す。
コメント