昔から「群れ」が嫌いである。水族館に行って鰯の群れを見るのは好きだが、学生街にて大学生の群れを目撃した時ほどテンションが下がることはない。
ギリギリ私も社会生活を営んでいるので、時として「群れ」の中にいることもある。しかし、「群れ」の中にいながら、外からの「群れ」見え方を気にしては嫌になることがほとんどである。錯誤調べでは、四人が限界である。
「群れ」に属さない人を「一匹狼」と呼ぶことがある。読者の皆さんはこの言葉にどのようなイメージを持つだろうか。憧れを持つ人もいれば、ネガティブな感情を抱く人もいるだろう。(もっとも、時々錯誤の読者のほとんどは前者だろう。後者の読者の皆さんはレアなので是非マウントを取っていただきたい。)孤高の人といえば聞こえは良いが、社会不適合者と言われればそこまでである。この差異は見方の違いにすぎない。
【以下チクチク言葉が含まれる。】
「群れ」の中での立場がその認識の差を生み出していると考えたこともあったが、この世には好き好んで「金魚の糞」の立場にいる人もいるからそうではないのかもしれない。チクチク言葉すぎるので注意をつけた。
【以上チクチク言葉が含まれる。】
おそらくここでいう「認識の差」は「生き方の差」なのだが、では「生き方」とは自分自身で選択できるものなのだろうか。国際関係の世界では、国にとっての「生き方」に選択の余地がないと考えるものと選択肢が存在すると考えるものが存在する。言い方こそ悪いが両者の立場は両極端であり、決着はついていないが、時勢に応じて有利不利は存在する。
人間関係においてもそのまま流用できそうな考え方である。人生を振り返った時、選択の数々に後悔のある者もいるだろうが、果たしてその選択が違う者であった時、あなたの生き方は決定的に変わったと言えるだろうか。
国際関係の世界においては、人口、地理的条件、資源、軍事力等々が各国の選択の幅を定めていると考えられている。人間関係の世界にこれを置き換えた時、おそらく人口や地理的条件、資源に当てはまるのは家庭環境や生まれた国などであるのだろう。軍事力のように後天的に獲得できる要素もあるだろうが、先天的な要素のウェイトが大きいはずである。
長々と書いてきたが、これは私自身が「群れ」を嫌う理由の正当化に過ぎない。やはり学問は「一匹狼」の大きな味方である。
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