小学校卒業直前くらいの頃のお話。私の出身小学校はひと学年で1クラスしか編成できないほどの小規模校でした。そのため、お互いのことをお互いがよく把握していました。良い言い方をするとコミュニケーションをとりやすい。悪い言い方をするとムラ社会。
幸い、そもそも私の学年は「ムラ社会度合い」が低かったように感じます。また私は諸事情により別の中学校に進学しました。そのため、中学入学後になぜか成立したという、出身小学校ごとの「ムラ」に帰属することがありませんでした。そして今回のお話は強いて言うならコミュニケーションを取りやすいという点から生じたこと。これは個人的な偏見なのですが、小学校高学年の子どもが「性別」の垣根を超えて理由もなく会話するのにはハードルがあると思います。しかし当時の私にとって男子とたわいない話することは普通のことでした。
さて前置きを終わらせて冒頭に戻ります。あれは小学校卒業直前、将来の自分に宛てたビデオレターを撮影したときのこと。鮮明に覚えています。クラスメイトの男子に声をかけられました。
「僕たちはなんのために生きてるの?」
……えっ
あまりに唐突に究極の命題を投げかけられた私は態度には出さなかったものの相当おののきました。
そういえば、小学校の修学旅行で同じ部屋になったムードメーカーの子が同じ部屋のメンバー全員に口上を作ってくれたことがありました。確か私の口上は「何でも知ってる」云々だった記憶があります。もちろん私はなんでも知っているわけがありません。当然私たちがなぜ生きるのかの答えなんて持っていません。
当時の私は戸惑いを隠せなくなりだしながら「種を次の世代に残すためなんじゃないかな?生物だし。」と答えました。生物にとって、これがとりあえず”正しい”答えだと判断したからです。すると彼は「じゃあ子どもを産むために生まれてきたの?子供を産まないと生まれた意味がないの?」と訊いてきました。子どもを産まない人(やライフスタイルや思想)を否定するつもりが全く無かった私は完全に動揺しました。とりあえずとはいえ”正しい”と思った答えの反例をいとも簡単に挙げられてしまったのです。
子孫を残すことそのものには意義がないと仮定します。ただ、実際に生き物は種を残すために次の世代を産む→次の世代が生まれる→産む→生まれるの無限ループを行おうとしています。生物が意味もなく次の世代を残させるという訳ではないでしょうから、背理法的な考え方をすると、子孫を残す、ひいては種を残すことには何らかの意味があると推測できます。
しかし当時の私はもちろん今の私も種を残すことの意義を言語化することができません。よってこの答えはおそらく”正しい”けれど、この場合間違っていたように感じます。
実はこのエッセイを書いている途中でとある有名人の炎上を知りました。優生思想は当然可燃性です。なぜなら倫理に反しているから。ここでの可燃性はControversialではなくWrongー間違っているという意味です。また私個人も優生思想は到底肯定されるべきものではないと考えています。でも、この世で初めて優生思想を唱えた人は拙くその結果として歪んだ”善人”だったんじゃないかとも思います。
私はこのあと「もちろん、子どもを産む産まないは個人の自由。そもそも人間には健康で文化的な最低限度の生活をおくる権利がある。でも全員が子どもを産まないと種は消えちゃうよね」という風にお茶を濁しました。彼もこの答えにある程度は納得してくれたようで会話はここで終わりました。しかしその時の彼の表情に少し陰りがあり、それを見て歯と歯の根が噛み合わないような感覚を受けたこともおぼろげながら覚えています。
今考えると私の答えは全く正しくなかったように思います。”正しい”けれど、少なくとも6年後の自分はこの答えをしたことに後悔しています。おそらく彼の求めていたのは種としてなんていうマクロな話ではなくもっとミクロな話;一個人が生きる理由だったように思います。当時の私もそれに薄々感づいてはいたはずです。しかしわからないと答えるのはプライドが許さなかったのでしょう。その結果として種の話に逃げてしまったのでした。
そしてこれはあくまで想像、いや妄想ですが、もしかしたら彼は生きることそのものへの肯定を求めてきたのかもしれないとすら思います。「生きることが生きる意味」、と某政治家のこすられている発言のような、答えになっているのか分からない答えをしておけばよかったような気がします。
過去の私は倫理的にアウトな発言はしていないと思います。でも相手がどんな背景で言葉を投げかけてきたのか全く考えずに自己満足の質難しい言葉を返しました。拙い”善人”でしかありません。
あの時から随分と時が流れました。申し訳ないけれど、彼がどんな顔をしていたか、どんな声をしていたかほぼ覚えていません。比較的鮮明に覚えているのは彼のかけていたワイン色のメガネだけ。どのあたりに住んでいたかなんとなく把握はしていますが、彼が今生きているかすら分かりません。今の私とあの頃の私は全く違う世界に生きていると言っても差し支えないくらいです。
しかし、「僕たちはなんのために生きてきたの?」というフレーズは常に私の頭の隅に存在しました。そしてこの問いはこれからもずっと私の頭にこびりついて離れないのでしょう。とりあえず現在は「自分の生きたいように生きようとする」ことが生きる目的だと考えながら、自分の拙さをできる限り排除すべく試行錯誤して日々を過ごしています。
生きる意味はわからない。彼が今生きているかもわからない。なんでも知っていたい。何も知らないまっさらはうらやましい。まっさらは棘。
コメント