この夏、さんざん「編集者が欲しい」と喚いていたが、ついにその願いが叶った。早速、記事ネタのもとになるような有象無象の提供をお願いしたところ、本当に有象無象が送りつけられた。おかげで記事ネタのストックもでき、一安心した。
そう、執筆には至っていないのである。
全く幸先が悪すぎるが、「未来は自分の手で変えるものである」とは、耳にタコができるほど言われることである。幸あれ。
さて、少し前に「貫通錯誤が相対的に丸くなった」話をした。この夏の発見は、どうやらそれが客観的にみても明らかであるらしい、ということである。曰く、「社会化された」という。
「社会化」とは社会に適応同化していくということであるらしい。社会不適合者が社会適合者になることはまさしく「社会化」なのであろう。社不卒業である。めでたしめでたし。
とはいかない。専属編集者(はとぶえさん)にこのことを話したら「社会化したくありません」と返された。奇しくも、(注:奇しくもない。同類しかこの連載は読まない。)私も同じ考えである。レーダーチャートには鋭角があった方が良い。
しかし同時にこうも言われた。「社会化されたくないと思った時点で、社会化されているのかもしれませんね。」
世の中の人間とはたいていがよくわからないもので、「奇人になりたい人」だとか、「変人と呼ばれたい人」とかがたくさんいる。ただ、はとぶえさんの指摘通り、その発想自体が凡庸そのものである。
そもそも、「社会化」の基準たる社会を定義しているのは誰なのだろうか。誰のものさしで測った「変」が変人とされるのだろうか。それは多数少数の話でもあり、社会通念の話でもあり、歴史と倫理の積み重ねの話でもあるのだろう。ただし、一定の軸の中での話である。
あなたはりんごである。その上で、りんごを切ることを想像していただきたい。真っ二つに縦に切っても、横に切っても、斜め45度に切っても、あなたというりんごの断面は平凡である。もしかしたら、あなたの隣にあるりんごは、櫛形切りした時に模様が見えるかもしれない。それが、あなたが知っている「切り方」=「軸」で見た時の「変人」である。
しかし、模様が見える「りんご」=「他者」は、もしかしたら櫛形切りを知らないかもしれない。あなたが変人と認識しているその人は、自身を平凡と認識しているのである。要するに、りんごは切り方次第である。
あなたというりんごの断面も、切り方によっては光り輝く。その切り方を知ることこそが、平凡から抜け出すための第一歩なのである。
P.S
記事内「有象無象」とはこのことである。「ばかうけ」などという大層な名前をしておきながら、ここまで折り畳まれてしまって。情けない。まさしく社会化されている。しかしもっと情けないのは、締め切りを守れない私自身である。全く。
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