全ての季節には、その時期に食べなくてはならないものがある。夏にはかき氷を食べなくてはならない。秋は秋刀魚。冬はメルティーキッス、源氏パイチョコ、柿の種チョコ、そして三角チョコパイ。(チョコレートが絡み過ぎている。)
そういうわけで三角チョコパイが解禁された。解禁された週に三つ食べて以降、まだ一つも食べられていない。が、先週にいちご味が登場したらしい。私の足はマクドナルドに向かうこと間違いなしである。
三角チョコパイを食べた、その実感を最初に得られるのは、チョコ要素ゼロのパイ生地に齧り付いたあの瞬間である。乾いていてあまり味はしない。あれだけで構成される商品だったら誰も買わないだろう。しかし、あの後にチョコが待っていることを我々は知っている。そこに至るまでの高揚感を添えれば、あれほどおいしい食材はない。
なぜ我々は冬の時期に三角チョコパイを欲するのだろうか。風物詩だとか、冬を始めるためとか、そうした哲学的な議論はさておき、食品としての魅力の観点から議論をしたい。三角チョコパイを構成するのは、パッケージと、パイ生地の部分と、チョコである。チョコパイをチョコパイたらしめいているのは、私の考えではパイ生地にある。おいしい果実を得るまでの道のりは、いつもパイ生地が守り、そして飾り付けてくれている。
ちょうどチョコパイを食したタイミング、私は発表という発表に追われていた。(否、現在進行形である。)夜な夜な資料を作っては発表し、また次の発表に備えて資料を作る。終わりが見えない世界にいるかに思えたが、それでも資料を作り続けられたのは、目的地が見えているからだ。資料とは、自分の思考の足跡である。発表とは、自分の思考を披露する場である。内々に守られてきた私という人間の思考が世に解き放たれる。我が子のように守り育ててきた自分の思考が巣立つかのような気分である。同時に、我が子は外界の激しい刺激にさらされる。それによって、我が子を強くしていくのである。思考の解放と研ぎ澄ましこそ、発表で得られる果実である。強くなれることをを知っているからこそ、私は資料を書き続けられたのだ。そして発表を終え、強くなった自分と共に、次の発表に向けて辛抱していく。
長く見える道のりは、ゴールの味を知ることで豊かに見える。言い換えれば、万物はチョコパイである。パイ生地が、チョコが枯れた後もなお美味しいところも含めて。
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