「エッセイを楽しむ会」 第1回結果発表

概要

「エッセイを楽しむ会」第1回の結果発表です。
エッセイを楽しむ会について、また第1回の概要についてはこちらをご覧ください。

結果発表

柳泉洞さん (32歳)の作品
脱プラ急流である。レジ袋が有料化してより、物忘れの多い私は腕に抱えられるだけ抱えて帰るようになった。素晴らしいビジョンは共有しているつもりでも、各論になれば、かこちたくなるのは許して欲しい。一方、脱プラで消費者に我慢ばかりが強いられるかというとそうでもない。ラベルレスボトルの登場である。物ぐさな私にボトル廃棄は一仕事だ。ためにためたボトルを並べて、一気にラベルを切る。それで簡単に剥がれるのだが、それでも溜込むのが私の怠惰な性である。流石の私もキャップを外すぐらいのことはできる。それができないのでは、飲むこともできない。デザインが主張しないのも良い。いかなる優れたデザインも、単体でない限りは調和と向き合わざるを得ない。この意味で商業デザインとは、調和との相性が悪い。個性派揃いである。個性は人にこそあれば良い、ものは静かにそこにあればよいのだ。あまねくラベルレスを願ってやまぬこの頃である。

感想・講評
まずエッセイの冒頭、「脱プラ急流である。」という文章が、書き手側の世界に一瞬で持っていかれる感覚がある。最近レジ袋の有料化が実装され、「脱プラ」という言葉は何となく頭の片隅にあったのだが、その片隅に置かれていた言葉が、急にしっかりとした形で僕の頭に現れた。
また、「かこちたくなる」など難しい表現を使っている一方、空のボトルを捨てずに溜めてしまう怠惰な性格を持つ筆者に、どこか惹かれる感じもする。
(ちなみに僕は「かこち」の意味を知らなかったのだが、もし皆さんにとってメジャーな言葉であれば、僕が勉強不足ということだ。)

内容に関しては、「脱プラが謳われる世の中に、ラベルレスのペットボトルが出てきたこと」に対する筆者の営みや想いを綴っており、個人的に親近感がとても湧いた。
ペットボトルを捨てるのはとても面倒くさいのだが、その要因の一つはラベルにある。あのラベルを剥がす作業がどうにもやる気になれない。ジュースを飲み切った後の爽快感や達成感みたいなものに浸ってしまい、ラベルを剥がす行動になかなか移せないだからだろうか。よくわからないが、とにかくラベルを剥がす作業を後回しにしたくなってしまう。
ただ、ラベルレスがもっと進めば、一々剥がす面倒もなくなり、脱プラも進み、いいことだらけなのはわかっているが、ラベルがないペットボトルに違和感を感じる自分もいる。ラベルがないと、ただ色のついた得体のしれない液体を飲んでる気持ちになるのだ。まあ慣れれば気にしなくなるだろうと思って積極的にラベルレスのペットボトルを飲んでいこうとも思う。

このエッセイに出会うことで、大きな「脱プラ」という問題の中に隠れている、人の営みを見ることができた気がする。読んでいく中で、自分との共通点(ラベルを剥がすのがめんどくさいこと等)や、新たな視点(脱プラをエッセイにしたこと等)を発見することができた。そして、他にも紙ストローやプラスチックスプーンの有料化などが進んでいるが、何かの大きな流れに隠されている人々の営みや想いに触れていきたいと思った。

会に対しての感想

初めて「エッセイを楽しむ会」を開催させていただきました。自由律俳句と比べると応募数は少なかったですが、数関係なく素敵な作品に出会えたことに感謝です。今後もエッセイ・自由律俳句を募集し記事にしていこうと思うので、よろしくお願いいたします。

次回の開催について

次回の開催は未定です。決まり次第僕のTwitterアカウントで告知するので、フォローしていただければ幸いです。
また、現在、自由律俳句を募集しているのでぜひご応募ください。(匿名での応募も可能なので、どなたでも遠慮なく応募なさってください。)詳細は以下の記事をご確認ください。

荒川
荒川です。大学生です。自由律俳句とエッセイを募集し、恐縮ながら感想・講評を書かせていただいています。

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