「自由律俳句を楽しむ会」 第4回結果発表 僕の感想編

概要

自由律俳句を楽しむ会第4回の結果発表です。
自由律俳句を楽しむ会について、また第4回の概要についてはこちらをご覧ください。https://tobilog.net/7506/

また、今回はよりよい自由律俳句を楽しむ会の形を模索すべく皆さんからの感想を募集しました。その感想に関する記事はこちらをご覧ください。
https://tobilog.net/8010/
ちなみに今回のお題は「学校」でした。

この記事は僕の感想・講評を記載しています。皆さんからの感想をご覧になりたい方はこちらをご覧ください。

結果発表

ここからは僕の感想・講評を書かせていただきます(例によって順不同です)。

・りんごのウサギを二匹と数える
(白とり貝 31歳)

人のかわいらしい一面を感じる時はいろいろあるが、この俳句が表す光景もその1つの例である。うさぎを二匹と数えているのは自分だろうか、それとも目の前にいる相手だろうか。そんなことを想像し、この光景を思い浮かべるとよりこの俳句を楽しめるだろう。

・統廃合され知らない名前になった母校
(しろとも さん)

学校に通った思い出などを俳句にしているものが多い中、この句は学校そのものについてを俳句にしている。母校が無くなったり、形が変わってしまったりする時の感情はどういうものなのだろうか、と考えさせられた。と同時に、自分にはない感覚や視点に気付かされる俳句はとても楽しいものだな、と認識できた。

・廊下に暮らす僕らの自由
(宥樹 さん)

この自由が具体的にどの様なものを表すのかは汲み取りきれないが、確かに廊下に「自由」は存在していた。教室の閉塞感から一気に解放されるあの感覚を今でもなんとなく覚えている。でも逆に廊下に長時間いると教室が恋しくなり自分の席に座り、特にやることもなく窓を眺める日もあった。そんなことを思い出させてくれた。

・誰も来ぬ階段に腿寄せた弁当
(柳泉洞 さん 32歳)

学校という場所は自分が知らないところで、いろんな人がいろんな場所でいろんな思いを胸に生活している。例えば、休み時間は教室にいる人がいれば、図書室で本を読み人もいるし、体育館で遊ぶ人もいる。そしてこの俳句の人はというと、誰も来ない階段で弁当を食べていたのだ。
これは一人で食べていたのか、誰かと食べていたのか、「学校」というお題がない場合どこの階段なのだろうか、なども考えさせられる句だった。

・コロナが終わるまで試験止めて
(陽月星香 さん)

切実な思いが俳句になっているが、この句が生まれた具体的な体験やその時の感情をもっと知りたいと思う。個人的にはコロナが終わっても試験はしたくないが、そうは言っても試験はやってきてしまうので、なんだか頑張れと言われている気もしてきた。

・あいつが死んでもカーテンは膨らむ
(みよおぶ さん)

「あいつが死ぬ」という非日常的な体験と、「カーテンが膨らむ」という日常的な体験を掛け合わせたものであるが、この組み合わせが味になっている。
直接的に感情を表現しなくとも、この作者の感情が想像できる。個人的には、学校の膨らんだカーテンを見て、ため息をつく人物像が何と無く浮かんできた。
自由律俳句ではなく、575の俳句で季語を入れることで、その時の季節感を上手く混ぜて表現できる気もした。これが冬なのか春なのかで雰囲気がずいぶん違うだろう。そんなことを考えたらもっと深く味わえた。

僕のつぶやき

前回の記事で言ったように、自由律俳句の楽しみ方として、作者がどういう光景を表現しようとしたかを考えることがあると思います。俳句から自分には持ち合わせていない感覚や視点に出会った時はとても楽しいものです。だからこそ、俳句を作る人はどういう光景を表現したいか明確にして、そこに読み手をうまく誘導していくことが必要になってきます。読み手が「この俳句はこういうことを言いたいのかな?」と疑問を持つ形で終わってしまうものは、「優れている」作品とは言い難くなってくるのかな、というのが僕の印象です。また、その表現したい光景に意外性やオリジナリティが見えると、その俳句に触れた時にとても楽しく感じます。例えば、「朝6時に起きて眠い」みたいな感覚はありきたりで読んでも面白さに欠けます。


これが僕の俳句に対する考えです。ただ一番は楽しむことが醍醐味なので、気負うことなくやっていきましょう!このつぶやきが何かの役に立てば幸いです。

次回の記事について

年内に更新する「自由律俳句を楽しむ会の記事」はこれが最後になりそうです。また来年以降も継続していこうと思います。
来年もよろしくお願いいたします。

荒川
荒川です。大学生です。自由律俳句とエッセイを募集し、恐縮ながら感想・講評を書かせていただいています。

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