「自由律俳句を楽しむ会」 第3回結果発表

概要

自由律俳句を楽しむ会第3回の結果発表です。
自由律俳句を楽しむ会について、また第3回の概要についてはこちらをご覧ください。

ちなみに今回のお題は「夏」でした。

結果発表

順不同です。順位はつけていません。
文量の違いも作品の優劣に関係ありません。

花火帰りを接客
(みよおぶ さん)

僕は花火帰りを接客してもらう側を体験したことがあっても、花火帰りを接客する側は体験したことがない。当たり前の話ではあるが、接客されるには接客してくれる人が必要だ。しかし、僕はこの事実をどこか忘れていた。そしてなんだか自分が反省しなくてはならないような気持ちになった…
と、ちょっと大げさなことを言いつつ、花火帰りを接客する側になったら来年は自分も向こう側(接客される側)になる!と決意を胸にするのだろうか、それとも私は人の幸せに貢献できればそれでいい、となるのだろうか、なんてことも想像してしまった。

みごとな朝だ水をのむ
(泉由良 さん)

この句を初めて見た時、固唾をのんでしまった。
まず最初に「みごとな朝」というフレーズに惹かれたのは言うまでもない。朝といえば、「平日は会社や学校の準備などに追われ、休みは心行くまで寝る」みたいな人もいると思うが、この句の朝は、今日という素晴らしい日を生きるための活力がみなぎっている感じが想像できる。
「みごとな朝」という言葉で時間帯や風景の明るさを表現した後すぐに「水」という言葉が来ることで、この句を鑑賞する者の画角をクローズアップし、うまく映像を作れている気がした。水がのどを通るときの「ゴクッ」という音や、開いた窓からさわやかな夏の風が流れてくるシーンなどが頭の中で再生された。

かき氷のなかにもうひとつの空
(尾内以太 さん)

かき氷と並列して出てくる空という言葉が、この句の味わいを上下に大きく広げてくれている感じがする。極端に表現するとかき氷は地表にあって、空はその地表のはるか上に存在する。しかし、存在する場所が違っても、両者ともにどこか同じような雰囲気をもっていて、同じものを象徴しているかのように思えてくる。
もしかしたら、夏の空に浮かんだ雲をつかんでみたいと思った少年は、かき氷を食べていたのかもしれない。
「かき氷と空」、この句を作った人がこの句を通して何を表現したかったのかがとても気になる。

失恋の夢で覚め目のこれは汗
(柳泉洞 さん 32歳)

状況がとても想像できる。言葉のリズムがとてもいい。じめじめした夏の夜の感じや、これが昼寝であれば我慢できないくらいうるさい蝉の声なんてものも想像できる。起きた後、冷蔵庫に冷えている麦茶をコップに注ぎ、急いで飲み干す誰かの姿もなんとなく浮かんできた。
夏は花火や祭りなどのデートイベントがたくさん開催されるので、恋愛に関する俳句も来るのかな、なんてことも思っていたが、こういう切り取り方で表現してくるか、と感心させられた。

冬休みまでの日数を数える
(白とり貝 さん 31歳)

テーマを夏にしてまさか冬というワードをお目にかかるとは思っていなかった。確かに、夏休みが終わると次の冬休みまでの日数を数えたこともあったことを思い出した。こういう忘れていた感覚がほかにもたくさんあるはずで、できることならその一つ一つを心の引き出しに丁寧にしまい、いつでも思い出せるようにしておきたい。しかし、そんな願いは叶うわけもなく、だからこそ人の俳句を鑑賞して何かを思い出そうとしては、誰かを感動させることができる作品を私たちは作ろうとするのかもしれない。

おののくほど入道雲そびえる
(あつし さん 27歳)

「おののくほど」が表現するものにハッとさせられた。そうだ、僕が見たあの雲は「おののくほど」の雲だったのだ。
ヘトヘトになった部活帰りのバスから見たあの雲や、友達と遊び終わった夕方に現れたあの雲も、全部「おののくほど」の入道雲だった。
英語を勉強していると、最初から全人類が同じ言語を喋っていたらよかったのになと思いつつも、日本語が存在していてよかったなと思うこともたくさんあり、この句がまさにそんなことを思わせてくれた。

勝てるだろうか 水平線の入道雲
(あみた さん 30歳)

この句も入道雲について書かれているが、この句では「おののくほど」ではなく「勝てるだろうか」という表現をしている。夏の空に浮かんだ入道雲に対して色んな見方ができることを今回の募集で学んだことの一つだ。
この句を詠んだとき、自転車に乗っている野球帽をかぶった少年が思い浮かんだが、この句の作者は誰のどういうシーンを想像しているのだろうか。水平線の入道雲に勝てるような夏を迎えたいと思う今日この頃の僕である。

十六の夏休みで止まったままの私の時計
(ゆりのはなこ さん)

自分の感覚は一般的なものなのか不安に思う時がある。例えば、「桃の冷製パスタ」というメニューを見たとき、桃は桃、パスタはパスタで食べたいと思ったことがある。その時、この感覚は自分だけなのだろうか、それとも男性など自分が属するカテゴリーゆえにそう思う傾向にあるのだろうか、それともみんながそう思う傾向にあるのだろうか、そういったことも考えてしまった。
今回も同じように、この俳句に対する自分の感覚は他の人にしてみたらどういうものになるのだろうかとても気になっている。
僕は、なんとなく十六あたりで自分自身の何かが止まってしまっている感覚がある。その何かが具体的にはわからない。そして、それがどうして止まってしまっているのかもわからない。おそらく、丁寧に頭の中を探れば何かわかってきそうな気はするが、その作業はまだするべきではない気がする。この感覚は果たしてどのくらいの人が共感してくれるのだろうか。
それとも、この句の時計は物理的に時を刻む時計のことで、十六の夏休みの時に電池が切れたか何かが壊れたかで止まってしまったのを、最近になって発見したとかそういうことだろうか。

お知らせ(記事の更新が遅れたことについて)

記事の更新が遅くなってしまい大変申し訳ありません。遅れた理由をまず書かせていただきます。

僕は高校生の時からダンスをやっているのですが、最近熱が入りすぎてしまい、ダンス以外のことに時間を割くのがもったいないと思っていたことが一番の原因です。「とにかく上手くなりたい」という一心で四六時中ずっとダンスのことだけを考えていました。 周りを見れば、留学の準備のために勉強をしていたり、何かで結果を残して表彰されていたりしている中で、自分も何かを頑張らないといけないと焦り、「いろんなものに手を出すならダンスだけ頑張ろう」という気持ちでした。 結果的に、高校の時までは定期テストもあるので、勉強時間もある程度は取れていましたが、大学生になった今は全く勉強しなくなってしまいました。

ただ、僕はダンスでプロになりたいわけではありません。
ある日将来のことを考えた時、ずっとダンスの練習だけしていたら、(もちろんずっと練習した先に見える景色はあるかもしれませんが、)、自分の将来の幅が狭まってしまうことにふと気づきました。

だからこそダンスだけでなく、こういう俳句などの文芸活動や、英語の勉強などをして、「自分の人間としての魅力」を磨いていかなければいけないという考えに至ったわけです。もちろん、「人間としての魅力」はダンスにも活かされると思います。また、「磨いていかなければいけない」という言葉にはある種の義務感があるように思えますが、単純に文芸作品を鑑賞することは自分にとってとても楽しいことなので、自分のペースで気負わずにやっていきます。

こんな感じで心境の紆余曲折がありながらも、なんとかこの記事の更新ができました。この「自由律俳句を楽しむ会」を続けることで、どういう景色が見えてくるかわからないですし、どのように僕が成長できるかのかもわかりませんが、とりあえずは続けていこうと思います。
また、自由律俳句を楽しむ会以外にも僕が本を読んで考えたことや、エッセイなども今後は更新していこうと思います。(言語化って大事ですよね。)
もしお時間あればご覧になっていただけると嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします。

次回の開催について

次回は「自由律俳句を楽しむ会第4回」です。
第4回はより良い自由律俳句を楽しむ会の形を模索すべく、結果発表の方法を変えます。
みなさんから募集した全ての句を一回記事に掲載し、その後みなさんから、掲載されている句に対する感想を任意で募集しようと考えています。そうすれば、僕だけの感想ではなく色んな人の感想が知ることができると思います。

詳細について書かれた記事は9月以降に更新します。
ここまでご覧いただきありがとうございました。

荒川
荒川です。大学生です。自由律俳句とエッセイを募集し、恐縮ながら感想・講評を書かせていただいています。

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