時々錯誤 8/15

きっちり週間錯誤している。間違いなく、夏休みのおかげである。担当編集者が欲しい話は3回くらいしているが、そんなものがいらないことの証明にならないことを祈る。担当編集者は必要だ。

話はうってかわって、今日は小説を紹介しよう。『蜜蜂と遠雷』で直木賞と本屋大賞をダブル受賞した恩田陸氏による『Q&A』をご存知だろうか。郊外型の大型商業施設にて発生した、死者69名を数える事故の真相をQ&Aのみで探る、というのがあらすじである。

事故当事者が当時のことを語るシーンに、以下のような一節があった。

あの時あの場所にいて、私は何もできなかったし、自分がどういう状況に置かれているのかもわからなかった。何一つ選択できなかったし、考える間もなかったんだよ。

恩田陸 『Q&A』 幻冬社 文庫版p.92より引用

事故、事件、災厄に巻き込まれた人が持つ選択肢は皆無に等しいだろう。先週、人間関係におけるリアリズムについて、「群れ」を嫌う自分の正当化のために書き連ねたが、その話と共通する部分もある。

事故、事件、災厄とは、個人の選択肢の幅を狭めるものである。例えば今日、隕石が降ってきたとしよう。時々錯誤の来週以降の更新は叶わなくなる。これを究極的に突き詰めると、個人の選択肢には幅がなくなる。事故、事件、災厄を含めた「周囲」は個人の選択の幅を狭めるものであるからだ。

しかしこの言い分は極端すぎる。「周囲」によって選択の幅が広がることもあるからである。「〇〇の言葉に勇気づけられて」とはよく聞いたものだが、これこそまさに好事例である。彼らにしてみれば、災厄ですら気づきを与え選択肢の幅を結果的に広げるものなのであろう。

そうすると現実主義者は反論する。曰く、「〇〇の言葉に勇気づけられて」というのは、「〇〇に誘導されて」を言い換えたに過ぎない。〇〇氏はあなたという個人の選択の幅を狭めたどころか、あなたから選択の権利を奪ったのであると主張する。

これ以上やっても堂々巡りだが、やはりこの問題も感じ方の差に過ぎない。認識の差が人の主義主張を決定する。

『Q&A』に登場した事故当事者は、現実主義者寄りであったからこそ、「何一つ選択できなかった」と回顧したのであろう。

同著には、事故から奇跡の生還を果たした少女を神聖化する団体も登場する。この団体が立ち上がったのは、事故をきっかけとして「団体立ち上げ」という選択肢が新たに生じたからであろう。この疑似宗教団体の立ち上げ人と前述した事故当事者の主義は真っ向から対立しているのだ。(もっとも、この二人が直接バトルするわけではない。)

たまには連載らしく、前回の内容を踏襲するのも悪くない。貫通錯誤が案外行き当たりばったりではないことを知ってもらったところで、今週はここまで。

貫通錯誤
カードゲームとボードゲーム(ゴールデンエッグラー,mtg,シャドバ,Blade Rondo,自作など)を嗜んでいます。カードゲーム、音楽、動画についてなどと、根強いファンを誇りたいショートエッセーの現代錯誤という連載を書いていきます。
noteでも(ほぼ同じ内容を)公開しています。⇒https://note.com/sakugo_suzuko

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