本記事はトビログ初のイベント「○○のプロフェッショナルと思われる人々」の卒業編の記事となります。
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私は卒業式の経験が豊富です。なぜなら小学校で5回経験しているからです。何故こんなにも経験したのか?それは私の卒業した小学校は一応都会と呼ばれる地域にあるのにもかかわらず、緑にかこまれていて全校生徒が少なく、全学年が卒業式に出席させられるからです。それならなぜ6回ではなく5回しか経験していないのか。それは小5の頃の卒業式の際にインフルエンザで出席停止をくらったからです。
5回にもわたる卒業式と卒業式の練習によって私は知らず知らずのうちに「卒業ソング=合唱曲」と刷り込まれていたようです。これに気が付いたのはごく最近、もっと詳しく言えば約半年前といったところです。また一般的に小学校の卒業式には5年生と6年生しか出ないことを知ったのもかなり最近のことになります。
私たちの小学校の卒業式は2部構成でした。前半が所謂”卒業式”(式辞や卒業証書授与など)で、後半は1-5年生による歌のプレゼントとそれに6年が歌でお返しする時間として設定されていました。そして前半にも国歌や校歌の斉唱や卒業生による歌の時間がありました。つまり半分以上が歌のコーナーだったのです。当時の私は何の疑いもなくこの卒業式に出席して6年生のお兄さんお姉さんに歌のプレゼントとやらを送っているとともに、無意識のうちに卒業式を「歌謡祭」と勘違いするようになりました。
「歌謡祭」で聴いた曲のうち、私が一番好きになったのはflumpoolの『証』という曲です。自分の3つ上の代が卒業式の前半パートの最後に歌った曲でした。
flumpoolはバンドの形態で活動していて、この曲のセルフカバーを出しているものの『証』自体は2009年NHK全国学校音楽コンクール(通称Nコン)の課題曲、つまり合唱曲として作られました。そして歌詞は明らかに卒業を示唆しているものとなっています。それゆえに先輩たちの卒業式の合唱曲にあてがわれたのでしょう。私は1度聴いただけで卒業に伴って生まれる感情を切実なまでに表現した繊細な歌詞と、少し癖があってかつ耳触りの良いハーモニーの虜になりました。
『証』を好きになった7年後、偶然この曲を歌えるかもしれない機会がやってきました。自分の学校で音楽を選択している同学年の生徒が自主的に合唱コンクールを催すことになったのです。先生が黒板に書きならべた候補曲の中にこの曲を見つけた時、なんとしても歌いたいと強く思いました。そしてクラスでの話し合いでの選出ののち、じゃんけんでの曲の取り合いが行われた結果、私たちはこの曲を歌う権利を得られました。
「なんで音楽取ったの?」と言われるほどの音痴なのにもかかわらず、私にとって合唱の練習はとても楽しいものでした。当時のクラスに歌の上手い人が多く、初回の練習からかなりきれいなハーモニーを響かせられたこともその理由でしょう。しかしなによりも一生歌うことがないと思っていた好きな曲を練習する機会を思いがけず得られた喜びは想像以上のものでした。先述したように、私はこの曲のメロディはもちろんのこと、歌詞が大好きなので、下手ながらも「上手く歌おう」ではなく「歌詞に気持ちを乗せて届けよう」という思いのもとで歌うことを心掛けました。そのため、自主的な催し物ゆえ高評価をもらえても特にメリットが発生しないのにも拘らず、かなり一生懸命練習しました。
しかし、この曲を披露する機会はいとも簡単に消え失せました。合唱が飛沫を生じさせることは理解にたやすいでしょう。パンデミックが収まるまで皆で歌は歌えないのです。ずっと憧れていた歌を歌える機会が無くなるとともに、これから始まる高校最後の1年のうちには合唱をする機会はおそらくゼロ…。このことを悟った私は虚しい気持ちになりました。今思えば、これは心のどこかで「歌のない卒業は卒業じゃない」と思っていたからのような気がします。
感染症が広まるにつれ、自主合唱コンクールにとどまらず、人生最後になるはずだった学校行事がどんどん中止になっていきました。しかし皮肉なことに、いくつもの「最後」が消し飛ばされても、定期試験だけは図太く敢行されました。そしていつも試験期間中に行っている試験後の楽しみ作りすらも私を悲しい気持ちにさせました。今までだったらできたはずなのに今となっては現実味がない事柄ばかりを想像しては私は深くため息をつきました。
コロナ禍での考え事は心の穴を大きくする一方だと感じた私は息抜きのためと言いながらYouTubeを起動させました。そこでこの曲に出会いました。
乃木坂46の『サヨナラの意味』です。ファン投票で何度も首位に輝いた、乃木坂46初のミリオン達成曲。簡単に言ってしまうとめちゃくちゃ人気の曲です。乃木坂46を全く知らない私もすでにサビの「サヨナラに強くなれ~」の一節だけは何となく知っていました。しかし逆に言うと、それ以外の部分の歌詞もメロディもこの時点では何も知りませんでしたし、「サヨナラに強くなれ~」が『サヨナラの意味』という曲の歌詞だということも知りませんでした。
兎にも角にも憂鬱な気持ちを解消したかった私はおすすめされるがままこの曲のMVを観てみました。見終わると、私はなぜか号泣していました。
※ここからほんの少しですが、MVの内容に触れます。ネタバレを避けるにはここを押してください。
見てもらえばわかる通り、このMVでは架空の村の人間と感情が高ぶった時に手に棘が出現する棘人(しじん)と呼ばれる種族の交流譚が描かれています。かつてこの村では人間と棘人が争いあっていました。しかし現在は争いは起きておらず、平和の契りとして【棘刀式】(しとうしき)と呼ばれる儀式が行われます。なお【棘刀式】では1ヶ月の練習期間を経た人間の代表者「男役」が棘人の代表者の棘を切り落とすものです。
初めて聞いた時点で乃木坂46メンバーの顔と名前をろくに知らなかった(自信をもって分かったのが5人くらい)のですが「ああ、あの人たちね」の桜井玲香さんがものすごくウザいので、彼女にはぜひ悪女役をたくさんやっていただきたいなと外野ながらに思っています。
物語の設定以外は基本的にはありがちな構造をしています。情緒や趣を完全に無くした言い方をするとこの物語は「勇気のある行動をして仲直りをする」話です。昔話や童話でよくある友情や勇気への賛美もこの物語の一つのテーマであることは間違いないでしょう。しかし、この物語は「勇気のある行動をして仲直りをする」だけの話ではありません。
自分で物語の要約を作ってみたものの、なんだか薄っぺらな表現しかできないのでここには載せません(やはり自分の目で見ていただくのが1番です)。しかしオチだけに触れておくと、人間と棘人の間で真の友好関係が築かれたのにも拘わらず、棘人の代表者は帝都へと旅立ってしまいます。もっとも、彼女は人間の代表者の勇気ある行動を受けて旅立ちを決意したと考えるのが自然ではあります。しかし、友好関係を徐々に築き上げていったものの、最後には自分の夢のために旅立つというシナリオは非常に珍しく、最後にして話がひっくり返ると言ってもいいと思います。
最後にしてひっくり返るのはMVのストーリーだけではありません。
★ ★ ★
ここからは歌詞に触れていきます。
まずは1サビとラスサビの前3分の2部分。
サヨナラに強くなれ
秋元康 『サヨナラの意味』
この出会いに意味がある
悲しみの先に続く
僕たちの未来
始まりはいつだって
そう何かが終わること
続いては2番のサビの前3分の2部分。
サヨナラを振り向くな
秋元康 『サヨナラの意味』
追いかけてもしょうがない
思い出は今いる場所に
置いていこうよ
終わることためらって
人は皆立ち止まるけど
そしてラスサビ前の歌詞。
サヨナラは通過点
秋元康 『サヨナラの意味』
これからだって何度もある
極めて冷静で正論としか言いようのない記述です。個人的には「サヨナラは通過点」という言葉が一番刺さります。人生というスケールで見るといくら重大だと感じる事柄ですらただの通過点に過ぎない、ということは疑いようのない事実です。別れに際してもこのような冷静な思考をできるなんて、この歌の主人公は相当理性的な人間なのでしょうか。
……勘のいい方はお気づきでしょうが、実はこれらの歌詞の引用は途轍もなく恣意的です。前3分の2なんてふざけていますよね。レポートでやったら怒られます。ということでここからは正しく1サビとラスサビの共通の歌詞を引用します。
サヨナラに強くなれ
秋元康 『サヨナラの意味』
この出会いに意味がある
悲しみの先に続く
僕たちの未来
始まりはいつだって
そう何かが終わること
もう一度君を抱きしめて
守りたかった
愛に代わるもの
付け足された後半部分を見ると前半の理性的な歌詞は自分を激励するための言葉であったことが分かります。この歌詞の主人公は別れを通じて「愛に代わる」ほどの何かを失い、自分を奮い立たせるために苦しい事実たちを言い訳の如く言い並べているのです。
事実の列挙から感情の吐露という流れは、理性>感情からサビの終わりに感情>理性に逆転する、つまりMVのストーリー同様に最後にしてひっくり返る構造を取っていると言えます。
最後にしてひっくり返る構造は、言いたいことをそのままいうよりも、一番言いたいことの前と後での落差が大きくなるため、感情に訴えかけるのに適していると考えられます。試験期間中の私はその技巧にまんまとはまり、心を大きく揺さぶられたのでした。
そしてこの瞬間、私の中の「卒業ソング=合唱曲」という式っぽい何か(※方程式ではない)が崩れました。この曲は確かに橋本奈々未さんの卒業シングルなのですが、歌詞に明確に卒業という言葉はでできません。しかし私はなぜか初めて聴いたこの曲を直感的に卒業ソングのくくりに入れたことを記憶しています。
これは「サヨナラは通過点」という歌詞によるものだと私は考えています。私は人生で何度も仰々しいまでの卒業式とやらに参加させられてきました。何度も卒業式を経験するうちに、私は「卒業ソング=合唱曲」という偽の命題を刷り込まれると同時に、いくら仰々しく式典を謳っても「卒業=通過点」でしかないとどこかで悟っていたのです。
合唱曲でなくとも、歌詞が明らかに卒業を示唆したものでなくても「卒業」を歌って人の心に寄り添ったり人の感情を揺さぶったりすることができる……私はよく考えなくても当たり前のことに高校卒業半年前になってやっと気づくことができました。
なおこの曲のメロディについては音楽の知識が無いため「きれいなメロディです!」以上のことを言えません。もどかしいがすぎる。
半月ほど後に行われる私たちの卒業式では歌う機会は元から設けられていません。しかし親が式に来れない等例年と違う点がいくつもあります。でも気にしていても仕方がありません。だって、人生のすべては通過点なのだから。
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