お久しぶりです。多様性の時代でなければ打たれていた杭、現代錯誤のお時間です。今日はそこそこセンシティブな話をしていますが、多様化社会に関する是非を問う意図がないことを予め示します。本文は、多様化社会の到来しつつある現代そのものに焦点をあてたものであります。
多様性の時代で良かった。誰もの気に障るようなこうした文章を自由に書くことが許されているのも、現代が多様性の時代だからです。
COVID-19によってグローバリズムの時代が終焉を迎えたともいわれていますが、多様性の時代はそう簡単には止まらないと考えています。多様化というのが、世の中の多くを占める、今のすべてに満足していない人にとって過ごしやすい世界だからでしょうか。
保守的で「前倣え」な日本社会にも多様化がもたらされているというのは社会的な大きな変化といえるでしょう。
伝統を大切にする日本人だからこそ、受け入れにくい点も多くあるようです。社会における受容と法制度との認識の乖離はおそらくこのあたりに由来しています。細かな制度の問題が解決されることを祈りつつ、本題へと移りましょう。
多様化社会の到来で困っている人というのは誰を指すのでしょうか。これは憶測にすぎませんが、多くの人が「おじさん」を想像したのではないでしょうか。これはこれでよく考えれば差別的にあたるとかなんとか言われる要素を含んではいますが、「男優位社会」である日本という事実に、「保守的=高齢」というイメージがくっついた結果、「おじさん」が想起されたのだと思います。
確かに、日本の政治家を見るに、多様化社会を実現するための法整備に反対している人のほとんどが「おじさん」です。ただ、日本の政治家のほとんどが「おじさん」であることから、あまり説得力のある説明ではありません。
「おじさん」をより一般的に抽象化して「保守的な人」と表現することにしましょう。多様化社会の到来を良く思わない「保守的な人」は一定数います。が、実際に多様化社会が実現したとして、「保守的な人」が真に困ることはあまり多くはありません。思想的に困窮することはあれど、実生活において困るシチュエーションはないといっても過言ではないでしょう。
では、実際に多様化社会が到来しつつある現代で、これを原因として困っている人とはだれなのでしょうか。それは「多様化社会に自分を当てはめられない人」です。
例として性的指向を挙げましょう。
事実として世の中の多くの人が「ストレート」である中で、そうでないLGBTQ+と呼ばれる人もいます。(詳しくはこちら。)LGBTQ+の概念は世が21世紀を迎えた頃から徐々に浸透してきています。一定数の国ではLGBTQ+に関連した法整備もなされ、ストレートと同様の(特に同性婚に代表される婚姻に関する)権利が保障されています。
多様な性的指向の在り方が浸透するにつれ、特に日本人は自分をどこかに当てはめたがる傾向があるようです。何かに所属したいという意識がそうさせているのか、あるいは出る杭の打たれる日本社会の恐ろしさがそうさせているのか、原因ははっきりしません。
予め申し上げますが、自分を何かに当てはめようとしてしまうことは、悪い事ではありません。自分を責める必要は全くありません。が、その上で敢えて申し上げます。自分をカテゴライズすることは間違っています。
食事の好みについて考えてみましょう。私はインゲンとオクラと魚卵が苦手です。チョコレートとパセリとアサリが好きです。人それぞれ、好きな食べ物と嫌いな食べ物がありますが、それをカテゴライズしたことはありますか?「君は納豆が苦手で寿司が好きなんだね、君は欧米人タイプの食事指向だね!」少なくとも、私はこんな会話をしたことがありません。
分類の目的とは何なのでしょうか。本能的な目的には醜い側面があるかもしれませんが、我々は分類という行為の目的を、自分の仲間を見つけるためのみとして解釈すべきです。
世の中は様々な分類にあふれています。が、分類されるための条件すべてに当てはまっているということは、もはや珍しいことであるといえます。
自分を構成する要素の一つ一つに対して、「これは自分だけではないだろうか」と不安に思うこともあるでしょう。あるいは、自分の行動を悩んでしまう日もあることでしょう。
しかし、案外「仲間」はいるものです。多様化社会の到来で増えてしまった分類を、我々はただポジティブに、共感の材料の一つとしてとらえるべきです。
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