現代錯誤 自粛に委縮、顰蹙を買う未熟さに気付く。

・本記事はむかしばなしです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
・本記事は、(一部の人間が存在を認めない)特定の微細な構造体をモチーフとしていますが、それに関する現状は決してめでたくありません。

 「自粛」していますか。現代錯誤のお時間です。

 むかしむかし、あるところに長い「自粛」の歴史を持つ国がありました。国の象徴が崩御した際や、大きな災害があった後などは、過激ともいえるまでに「自粛」がなされました。

 そんな国で、史上最も有名な「自粛」であったといえたものがあります。それは、ある流行病の拡大を防ぐためになされたものでした。

 この時の「自粛」と今までの「自粛」。言葉こそ同じでしたが、意味合いには少々異なるものがありました。かつてのものでは、日本国民を自粛させた元となったものが「同調圧力」でした。ただ、流行病の拡大に際しての「自粛」の大元にあるのは「自らの生命の危機」というリスクでした。また、他者の安全すら脅かす点でも大きく異なりました。自己責任では済まされない場合があるのです。

 ただそうはいっても「自粛」は「自粛」。結局は同調圧力頼りの力でしかありません。他者に安全が脅かされる。つまりは公共の安全が脅かされようとも、そこに法的拘束力を持った何かが生じたわけではなかったのでした。

 するとどうなることでしょう。第一段階として起きたのが、一部の人々による「自粛破り」でした。

 この国では、法律で禁止されていることはしてはいけません。人を殺してはなりませんし、物を盗んでは行けません。これはこの国が法治国家である限り、永遠に続くことでしょう。

 裏を返せば、法律に書かれていないことはしても構いません。

 流行病に際しては、「自粛」しなさいと定める法律はありませんでした。ですから、「自粛破り」は国民に認められた行為であることがわかりますね。

 ただ、この国に住む一定数の人は「自粛破り」をしませんでした。多くの場合、「自粛破り」がなされないのはこの国特有の同調圧力があるからでしょう。

 こうして「自粛」を「する人」とを「しない人」に分かれてしまいました。

 「しない人」は流行病のことが頭にないことが多いようです。病の拡大を防ぐための様々な対策を結果的には無視してしまいます。すると当然、病は広がっていきます。

 一方、「する人」はいよいよ追い込まれてしまいました。今までの日常が突然奪われ、しかも閉塞感が漂っているのです。

 であるからこそ、「自粛」を通じて分断が生じているわけです。

 現状は現在進行形であり、当然未解決なわけですから、模範解答は存在しません。であるからこそ、多種多様な対策が考えられてきたわけです。この国においては、私権の制限をしない形での対策が講じられてきました。

 「自粛」という行為には強制力がありません。我々は「自粛しない」選択肢をとることができます。

 強制力がなくても「自粛」し続ける良心のある人は、常に「自粛しない」選択肢という誘惑に晒され続けています。これが日常における大きなストレスとなっていることは言うまでもありません。

 私権を制限しないはずの「自粛」が、生存権という名の「人権」を侵害しているのです。

 「自粛」という行為は、結果として、憲法によって平等に保障されている権利を守ろうとしたがために、憲法によって平等に保障されている権利が保障されない状態を作り出しました。分断は生まれ、平等も公正も公平もなくなってしまいましたとさ。めでたしめでたし。

貫通錯誤
カードゲームとボードゲーム(ゴールデンエッグラー,mtg,シャドバ,Blade Rondo,自作など)を嗜んでいます。カードゲーム、音楽、動画についてなどと、根強いファンを誇りたいショートエッセーの現代錯誤という連載を書いていきます。
noteでも(ほぼ同じ内容を)公開しています。⇒https://note.com/sakugo_suzuko

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