艦これの艦娘って何者なのだろうか

皆さんお久しぶりです。相変わらずのIBKです。

鉄道模型関連の記事も今後少しずつ出していきます。少々お待ちください。

艦隊これくしょんというブラウザゲームがありますよね?2022年にはアニメの第2期も始まり三越伊勢丹グループとのコラボや旧軍港都市とのコラボでも有名なゲームです。なんと2023年には10周年を迎えます。ここまで続くとは凄まじいものですね。私も大好きでかなり沼っているわけですが。要するにその中に出てくる艦娘っていう「艦艇の魂を宿した女の子」たちが敵の深海棲艦を倒し、その中でプレイヤーの提督と関係を築いたりできるっていうゲームなんですよ。

しばふ艦の芋っぽさたまらんのじゃ~。なんでこんなに萌えとは遠いように見えるにも関わらず魅力的に見えるんだろうか…(早口)

艦娘とは何か、正体とは何なのかというのは公式からあえて具体的な情報提供はされていません。だからこそ同人誌やMMD、SSなどの二次創作が活発に作られ、それらが艦これファンたちの心をつかんでいるわけです。艦娘の正体には様々な説がありどれも非常に面白いものです。記憶という分野だけに絞っても「元々は一般女性」「船の持つ魂そのもの」「記憶を二重に持つもの」などなど枚挙にいとまがありません。まさしくこれが艦これの良さなのです。

今回はそんな中私が最も推している説、「三者動的関係説(自作)」をお話しようかなと思っております。これから書くことは全てあくまで私の個人的な解釈です。二次創作の延長と捉えていただくのが最も良いかと思います。また今後のC2機関の方針ではこの説も完全に否定される可能性もあります。そのあたりご留意のほどよろしくお願いいたします。

呉市の雪風と時雨。時雨よ二眼レフとはやるじゃないか。

深海棲艦とは?

艦娘の正体に入る前にまず対極の存在である深海棲艦について考えてみます。深海棲艦は「理由も正体もわからないまま襲ってくる謎の存在」としてゲームでは描かれています。しかし割と深海棲艦については「第二次世界大戦で沈んだ船/乗組員の霊」という説が濃厚みたいで、公式の四コマやアニメなどでも「船の怨霊」として描写されることが多い存在です。また最近ではイベントとかのボスくらいの深海棲艦を倒すと艦娘になるかのようなボイスが導入されることが多いんですね。イベントのドロップとかはそうだと思いますが。このあたりからも艦娘と深海棲艦は表裏一体なのではないかという説が有力視されていたりします。第1期のアニメはまさにこの設定に従った内容でした。フブキチャンアッアッアッ。

このような「戦争の霊が現代社会に襲い掛かる」ような創作物は戦後それなりに作られています。ゴジラなどまさにその例ですよね。「ゴジラ?なんで?」と思われた方もいらっしゃると思います。普通に見ているだけではゴジラが戦争と関係するとは思えません。しかし意外にも政治思想の分野ではゴジラは研究対象としてそこそこ挙げられることがあります。ここでは慶應大学の萩原先生の論文を少し引用しつつ述べようと思います。

ゴジラとは何かという理論はそれなりに長い期間議論されてきました。水爆実験で目を覚ました古代生物説、恐竜が放射能で進化したもの、巨大化したイグアナ、幽霊などです。萩原はこれらどれも正解としたうえで川本の議論を引用しています。ゴジラは戦争で亡くなった人への鎮魂歌なのではないかと。日本人がゴジラを恐れるのは「海から」現れることに理由がありさらにはゴジラは天皇制の呪縛で皇居を破壊できず皇居の前で反転し海に帰っていったのであると。また萩原は川本の延長として加藤の主張を引用しています。日本人は戦後、アメリカのもと日和見主義的な方法で「民主化」したことで310万の死者の魂を裏切ったのであると。その結果その戦死者、侵略の先兵と祖国防衛の英霊の二面性を持つ霊は扱いにくい宙に浮いた存在となってしまったのであると。しかし萩原は加藤の理論には疑問を投げかけています。果たして日本人は一億玉砕をすべきだったのであろうか。我々の本来とるべきであった責任とは何か、加藤の意見からは見えてこないとしています。

萩原はこれらの意見を踏まえた上でゴジラは反戦のシンボルなのではないかと述べています。つまり必ずも日本人の死者だけでなく大東亜戦争で亡くなったアジア諸国の人々、アメリカ人兵士の霊を含む怨念の集合体がゴジラなのです。ゴジラが日本を襲う理由は広島県の原爆ドームの碑文などからも明白で「同じ過ちを繰り返さない」の「過ち」のひがみに気がつかない日本人が変わらない限り反戦のシンボルのゴジラは襲い続けるのです。「過ち」からは被害者意識しか生まれず非生産的です。日本人が唯一の戦争被爆国であるにも関わらずその歴史的事実を忘却しようとしていることを反省しない限りゴジラは襲い続けると萩原は初期のゴジラを考察しています。

さて第二の例として挙げられるのが三島由紀夫です。ここでは彼の短編小説『英霊の聲』を少し引用して考えてみようと思います。『英霊の聲』の中で三島は現代(高度経済成長期の日本)を以下のような言葉を使って批判しています。(ただこのあたりは政治文化や政治思想の研究分野として名高い研究者の先生方が研究をされているので簡単に紹介する程度にしておきます)

「利害の錯綜、敵味方の相結び、外国の金銭のまん延、卑劣への愛、夫婦朋友も信ずる能わず、いつわりの人間主義、偽善の団欒、ただ金よ金よと思いめぐらせば、人の値打は金よりも卑しくなりゆき、大ビルは建てども大義は崩壊し、その窓々は欲求不満の蛍光燈に輝き渡り…」(編集)

なんというかすごく過激ですよね。戦後たったの20年くらいで戦前の精神を忘れ去りアメリカの草案をそのまま憲法とした現代日本を三島は本来の姿と認識したくなかったのでしょう。戦後の日本人ももちろんですが、三島がなにより許せなかったのは1946年の天皇の人間宣言でした。『英霊の聲』で三島は弟神の主張として以下のように描写しています。

「だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云おうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだった。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。それを陛下は二度とも逸したもうた。もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。」

この文言からも分かる通り三島は昭和天皇の意志自体は非難していません。別に昭和天皇が心の中で現人神としての天皇像を否定していてもかまわないのです。しかし天皇はそれでも「人間の義務として」神であり続けるべきだったのです。『英霊の聲』の弟神は特攻隊の亡霊という設定ですが、この弟神が神として、神秘的な存在であり続けるためには天皇が神として頂点に輝いているべきだったのです。以下に弟神の引用を載せます。

「われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることは、そういうことだ。人をして、われらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。その具現がわれらの死なのだ。しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神として陛下が輝いていて下さらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光があり、われらと歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。(中略)神のみが、このような非合理な死、青春のこのような壮麗な屠殺によって、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるであろうからだ。そうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだろう。われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下がるだろう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことになるだろう」

明治維新以降、大日本帝国憲法下での国体において国民1人1人は天皇の民でした。そしてその臣民1人1人の死はすなわち現人神である天皇のための死でした。特攻隊やガダルカナル島守護隊の玉砕のような出来事も皆天皇が現人神として輝き、そしてその輝きによって死が神秘となる。三島はそのように考えていたんですね。神としての天皇がいなくなってしまってはその亡霊たちは神秘では無くなりただの死者となってしまうだけなのです。

さて随分と艦これの話から逸れてしまいましたが、以上のことから知っていただけた通り、戦後日本の政治体制、国民意識に対して大きく不満を持つ意見というのは存在していたわけであります。極右的思想と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、現代社会において戦前日本の政治体制や国民意識がどうとらえられているか極めて曖昧なあたりあながち間違っていないような気もします。深海棲艦も同じような理論を導入できないでしょうか。すなわち現代の日本という国に適応できなかった存在、明治維新以降のいくつもの戦争で日本のため天皇のために死んで行った、いや「沈んでいった」のにその天皇には裏切られ、日本国民1人1人には「扱いにくい」として忘却される運命にある霊の集合体が深海棲艦を作り上げたのではないでしょうか。空母棲鬼が攻撃を受けるときの

「ナンドデモ、クリカエス、カワラナイ、カギリ」

という台詞はまさしく日本国民が変われていない(=戦後すぐのレジームのまま偽の民主化を謳歌している)ことを嘆いており、また港湾棲姫が沈む際

「イツカハ、ワタシタチモ、カエレル」

と発言するのは今の自分たちには帰る場所、つまり天皇が現人神として英霊を輝かせてくれる日本という国がないことを暗示し、いつかは日本がそのようなレジームを破壊できると信じているからこそではないでしょうか。「水漬く屍」を忘れ去ろうとしている日本人に対するやりようのない怨念というべきでしょうか。

艦娘とは?

さてここまで艦娘ではなく深海棲艦のことを軽く述べてきました。ここまではあくまで助走です。ここでは深海棲艦と対極の存在である艦娘とはなにかを軽く考察しようと思います。深海棲艦が上記のような存在であるならば艦娘はその逆の存在です。では一体何が艦娘と深海棲艦を分けているのでしょうか?

艦娘の発言を考察していくといくつかの点が分かります。まず①普通の女の子のような感性を持つ、②船としての記憶を持ち、身体は船体として認識しているよう、③(例外もいるがあの3人組は裏提督LOVE勢なので(殴))提督、つまりプレイヤーを基本的には慕っている、などです。まあ特に気にしなくても良いようなことばかりで申し訳ないですが、このあたりニコニコ大百科やPixiv百科事典の方が詳しそうなのでそちらに頼ることにします。

このような事実確認の中で引っかかることがあります。そうです、天皇との関係です。ゲームという性質上天皇というセンシティブな内容を出すのは若干難しいからか(というかこれが正しい答えだとは思いますが)、ほとんどの艦娘たちは自分たちの艦歴やバックグラウンド以外の情報、つまり天皇のことや大日本帝国そのもののこと、戦前の国民意識や政治体制を言及することはありません。ほぼ唯一比叡が御召艦として活躍した旨を語ることがあるくらいです。これは何とも不思議な事象です。彼女らはこの21世紀に姿を表すまでの記憶は沈む前までで途切れているはずです。宗谷など現代も生き続ける船は戦後の歴史を見てきているとは思いますがほとんどの船は最新の記憶が戦前戦中もしくは戦後すぐで終わっているはずなのです。しかし彼女らはそれらに触れようとしない、あえて触れようとしないのか無意識に触れることがないのかは何とも分かりません。

しかしこの艦娘たちの謎(?)と深海棲艦との対比を構造的に解決する理論が田辺元の浄土真宗的な考え方にあるように思います。田辺元といえば戦前の京都学派の一人であり、戦争を支持したとして戦後非難され半ば隠居生活をしていましたね。戦前ではハイデガーなどと交流があり彼の思想の影響も受けていることが特徴的です。田辺の思想の根底にあるのは「三者の関係」です。三者の関係はいかなる部類においても存在し、人間、さらには世界全体をこの三者の関係が構成しているのです。宗教学の布施先生の文献から引用させていただきますと、例えば「種」と「個」という二つの概念があるときこの二者は連続的な関係にあるためいずれどちらか一方に集約してしまいます。そのためにどちらか一方を極限の存在とすることでしか認識する方法がないわけです。田辺はこの「種」と「個」の間に否定を通じて両者を統合できる媒介が必要であり、それが「類」だというわけです。ここで三者間に対極の否定が媒介の肯定を意味すると言う動的関係が生まれるわけですね。こうして概念というものは定められる、とするのが田辺の基本的な考え方です。

さて田辺はこの概念を日本という国家にも導入します。詳細は田辺元の論文集にある学徒出陣により出征する京都大学の学生を鼓舞する演説をまとめた『死生』に譲るとしますが彼は日本という国家の三者関係を「神」「国家」「国民」の三要素によるものとしています。国民が身をささげるのは直接神に対してではなく国のためです。つまり神は国が人間の1人1人が持つ神聖さなどを生かすことで国の性質を超越して神を実現しているわけです。「神」「国家」「国民」この三者はそれぞれを媒介として結びつき三一的統一を可能にしているわけです。この三者は「動的」関係にあります。要は離れる運動も起きます。それが田辺の言う「普段」、危機的状況ではない場合の関係性です。しかし戦中の日本ではこの三者が動的関係になかったと田辺は見ています。神と国家が同一のものとなってしまったのです。当時天皇の神格化は国家の神格化と同義でしたから(忠孝一本の延長とも言えますが)神と国家の違いはほぼなく「連続的な関係」になってしまったのです。これでは「神=国家」と「国民」の二者関係になってしまいます。さらに田辺はこのような二者関係となると歴史が止まってしまうと述べていますが、これはつまり動的関係のもとで構築され更新される歴史が二者の固定関係となると更新されず運動が発生しないためいつまでもその状況で止まってしまう。歴史が止まってしまえばいずれこの国は崩壊してしまう。田辺はこう言いたいんですね。一種の戦前日本の体制批判でもあります。戦後の評価からは少し異なった主張ですが、もちろんこのような議論は当時許されませんからかなりぼやかして理論構成をしています。

ここで「三者の動的関係」を艦娘と国家にあてはめると何が見えてくるでしょうか。「国家」と「艦娘」の間には媒介が必要であることは間違いありません。ではその媒介とは?そうです。まさしくそれが「提督」つまりプレイヤー自身なのです。「提督」は「国家」でもなければ「艦娘」でもありません。艦隊を指揮するために鎮守府に着任し艦娘を監督する存在です。提督と艦娘の関係はその神聖さのみならず人間らしさをも現わすものではないでしょうか。これはまさしく田辺が述べた国家と国民の関係とその上位にある神の実現の関係性と似ています。艦娘の神聖さや人間らしさの生かし方は様々でしょう。キラ付けしたり、秘書艦として時報を頼んだり、ケッコンカッコカリしたり、改装を行ったり、放置ですらもそうかもしれません。それぞれのゲーム上の行動が艦娘への意味付けへと繋がっているのです。提督とは艦娘に現代における意義を見出すことができる存在なのです。提督が鎮守府に着任したとき、難死した霊の歴史は再び動き出し、艦娘として更新し続けているのです。だからこそ艦娘は現代の、令和の世界を普通の女の子として生活できているのです。あの三越の可愛い服装(矢矧可愛かった、あと加賀さんの割烹着…たまらんぜぇ)も提督が艦娘に意味付けを行ったことで「現代」を生きることができるからこそ可能なのです。戦後の日本において国家が提督と同一になることはほぼないでしょう。国民1人1人に主権が与えられ、国民の意志を民主主義的プロセスを通じて反映する国家は提督という一個人と同一化することはありません。その意味で新たな三者動的関係を得た艦娘は存在が可能になっているのです(つまり提督は存在しなければいけないのでちゃんと定期的にログインしましょう)。

さてこの三者関係の中に神、ここでは天皇はいません。つまりもう艦娘たちの概念の中に天皇は重要なファクターとして存在しないのです。我々が天皇を日本の象徴であり、どちらかというと優しいおじいさんみたいな感じに認識しているのとほぼ同じではないでしょうか(もちろん天皇観は国民一人一人異なると思いますし戦前皇国史観的な立場からすれば現代の天皇はかなり異質な存在かもしれませんが)。

(田辺の三者動的関係を艦これ世界に導入した図です)

ではこのような三者「神」「国家」「国民」のような動的関係を深海棲艦にあてはめるとどうでしょうか。彼女らの関係を構築していた「神」は人間宣言で消滅し「虚空の神」と「彼女ら」の二者関係になってしまったのです。だから彼女らの歴史は止まり現代の日本のレジームを受け入れられず深海棲艦として活動するのではないでしょうか。彼女たちに神聖さを生かしてくれる媒介は存在しないのです。まさに艦娘の対極と言えます。この止まった歴史がまさしくゴジラ研究で川本が述べた「天皇制の呪縛」なのかもしれません。一方の艦娘はもう天皇の船ではありません。本来二等巡洋艦以上の船首にあるべき菊花紋章は長門や陸奥、摩耶、鳥海らでは桜をモチーフにしたシンボルに変わっているのもそのようなメタファーなのかもしれませんね。逆に最近のイベントでボスを倒すと艦娘になるようなボイス(最後に「提督!」と言ったりする」)のは提督という媒介を取り込むことに成功したから、ということもできるかもしれません。

長門改二の船首部分。よく見ると菊花紋章ではなく桜のモチーフです。

艦これはたまに右翼的だとか逆に戦死者への冒涜だと批判されたりもします。うわべだけ見ればそうかもしれません。旧日本海軍の船の名前なんて侵略の象徴と言われてもおかしくはありませんし、戦死者が現代日本のサブカルチャーをどう認識するかなど知りえない以上その主張はごもっともです。しかしそのゲームの内容を見れば艦娘やゲーム自体は極めて現代的な、また戦中の日本の抱えていた矛盾を超越した存在であることが伺えるように感じます。そういった意味で艦これは新しい歴史観の構築とも言えるのかもしれません。このゲームがほかならぬ日本で誕生したことこそ大きな意味があるように感じます。

呉の蒼龍。かわいi(ry

私の戯言にお付き合いいただき誠にありがとうございました。艦娘とは、媒介を失ったまま歴史が止まり怨念で突き動かされる深海棲艦と異なり、提督によってその意味を生かされ、新たな三者動的関係を築くことができた存在という説でした。提督を慕っているというのもこれで何となく説明できるような気がします。ただ屁理屈ばかり並べているようにも見えますし、必ずしも正確ではないし、これが正解と言うつもりはありません。突っ込みどころもかなり多いと思います。そもそもサブカルチャーに文学作品や戦前の哲学、政治文化や政治思想論を組み込むこと自体野暮なことかもしれません。ただ艦これの無限の解釈可能性に私も便乗させていただいた次第です。

ではではー

〈参考、引用文献〉

萩原能久 (2012) 「ゴジラ: 日本的な、あまりに日本的な」、『Booklet』、第20巻、pp.34-48。

三島由紀夫 (1966) 『英霊の聲』、河出書房出版。

布施圭司 (2013) 「田辺元における対他関係の問題」、『宗教哲学研究』、第30巻、pp.69-81。

田辺元 (1943) 「死生」、国立国会図書館編『田辺元全集』、第8巻、筑摩書房出版、pp.243-262。

IBK

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